Be As You Are!

As You Are = あなたがあなたであるためのブログ。英語 / 学習 / 働き方 / マインドセット について書いていきます。 We Make The World you can be As You Are. 誰もが自分らしく生きられる世界をつくる。

2016年そして今後の抱負のための前説(from 過去ブログ)

過去ブログからのサルベージ第二弾。

ちょっと見てみた感じだと、まあ今とあんまり変わらない

変わらないようで、ちょっとは変わっている

 

前に比べて、根拠なき自信は高まっている。

 

いろんな人に、いろんなことを言われても、

いい意味での"話半分"で聞くことができるようになった。(良くも悪くも)

 

「確かにそうだ。そうなんだが、こっちとしても言い分がある。」

「だが、変わらないというわけじゃない。あなたの言ってくれたことを取り入れ、乗り越えて、さらによくなって叩きつけてやる。」

 

そういう態度が取れるようになってきた。いいか悪いかは別として。

 

その当時の自分は、とにかく自信がなかった。

何か言われたら、もっとビクビクしていた気がする。

 

「結局、俺しかいないじゃんね。」

「あんたは、俺じゃないだろ。」

 

という考え方に、より近づいたからなのか。(良くも悪くも)

 

また、振り返る機会にしていく。

 

d.hatena.ne.jp

 

一年の目標を定める
ただそれだけのことなのに、
どうにも道に迷ってしまった。

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彼のように、自説を鋭く書きつけるというのはどうだろうか。

http://rootport.hateblo.jp/entry/2016/01/02/001619

誰かに届けばその誰かが考えを改めたり、前向きになって活動的になったりするのだろうか。
それもよい。それもすこぶる良いことだ。自分がやったことで、自分の知らない誰かのためになることが出来たのだから。


彼のように、自分の頭で考えぬく(しかない)ことを小説のような形でまとめるのはどうだろうか。
http://booklive.jp/product/index/title_id/253019/vol_no/001

僕は読んだタイミングが良かったのだろう、少しばかり俯瞰的に文章を眺めることができたので病にはかからずに済んだ。しかし幼い頃あれに出会っていたら、今よりもっとひねくれた性格になっていただろうことは想像に難くない。もっと進んで他人との会話が怖くなり部屋から一切でられなくなってしまっていたかもしれない。

言葉はクスリでもあり猛毒でもある。
いや、むしろ、もっと広げて
表現全部がそうなのかもしれない。
しかも、表現する主体は人だ。

人は人に大きく作用するクスリや猛毒を自ら生成できるということなのか。
加えて情報技術は、人一人ひとりがそのクスリや猛毒をボタン一つで世界中に発射することを可能にしている。
人は表現一つで生死の境をさまよう。できることなら、人を活かす表現をしたいものだ。

(話が大きくそれた。)

僕はなぜこんなことを書きつけ始めたかというと、
僕は何かしら僕の納得の行く、進むべき方向が欲しかったのだ。誰かに決められたものでは恐らく不十分で、僕が僕自身との対話の中で捻出しなくちゃならない。
彼の受け売りになるが、これは「じぶんの『からだ』から出てくる『ほんとうのこと』」というやつを見つけ出す作業だ。

自分の「ほんとうのこと」「ほんとうにしたいこと」は何か。

これに真面目に取り合いすぎると時間がいくらあっても足りないのはぶっちゃけ初めから気づいてたことで、もっと言えば去年の時点で答えは出ていた。
新しい表現を使ってその答えを表すなら次のようになる。

「夢?やりたいこと?そんなもん一つに決まるわけはないし『じぶん』は常に変化しているからその時々で『ほんとうのこと』は違う。一つに同定してしまうのはむしろリスクになる。

だから僕は、『その時々でにわかに(でも構わない、)興味を持ったヒト・モノ・コトにすぐさま乗っかって一緒に何かできるようなスタイル』で生きれるように全力を尽くす。」

 

お仕着せの「就活」という気に入らないモノに時間と精神と身体をすり減らし切った挙句そのステージを降りた僕が、じぶんに正直に問いかけ続けようやく出た答えだった。
表現するのは得意じゃないけど、自分の思いに嘘偽りなく言えるのはこの答えなのだ。

だから、誰かに

「幼いし何も持っていないし見通しもないのによくそんなコト言えるな」

と言われても、

「正直言ってそうなんですとしか言いようがないことなんで誰になんと言われてもしょうがないくらいそうとしか言いようが無いんでマジで」

とかなんとか答えていたと記憶している。

「自分は、どうしようもなく『そう』なんだ」

という強烈な自覚があった。それは逆に言えば諦念とも取れる。

自分はどこまで行っても「ワナビー」で「ないものねだり」だ。
どこか満たされないところがあるのに満たされた気になってよく怠ける。
「無限の可能性」を信じて疑わないのに不断の努力は出来なくて足踏みしてばかりいる。そのくせ他人の足踏みには敏感で、うるさいくらいに背中を押して火を点けようと必死だ。
「自分がワナビー」なのに、他人のワナビーばかり気にしている、ひどく矛盾した存在。それがいまの自分だ。

昔の、「自分がワナビーなのに、誰かの表現作品の中の登場人物のワナビーに自分を投影して一喜一憂し・満足した気になっていた」自分よりはまだマシかもしれない。



多分、前と同じように、答えは自分の中にあるのだと思う。もう一声、自分の中から聞こえてくるものに耳を傾けてみることにする。